TOP > 2008年07月

昼食難民の新書生活

(新宿・秋葉原・芝浦など各地でのランチと読書)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カオ・パット+パット・パッカナー@トラート(タイ南東部)

美味しい昼飯を求めて海外でもフラフラと彷徨っているので、今日はタイ料理を紹介しよう。

バンコクからクルマで6~7時間ほど南東に向かったところに「トラート」という町がある。この「トラート」は発音がとても困難で、ほかの町で「トラートに行った」と言ってもまず通じなかった。ずいぶん田舎の町なのであまり知られていないためでもあるけど。

一般に、タイの地名は発音がとても難しい。例えば、古都で有名なアユタヤは、「アユタヤ」とカタカナをそのまま読んでも、「アユータヤー」や「アーユタヤー」などと発音を替えて100回言ってみても通じない。

というのも、アユタヤは無理矢理カタカナで書くと「アユ”ッタヤー」というような難しい発音で、さらに声調といって音程の上げ下げもある。タイでは、日本語のガイドブックに書かれているカタカナの地名を読んだだけではまず通じないので、タイに行かれるときには、地名がタイ語で表記されているガイドブックを持参することをお勧めする。また、タイの各ホテルにはタイ語でホテル名と住所が書かれた名刺大のカードが置いてある。タクシー運転手などに示す際には便利なので、覚えておくとよいだろう。

ちなみに、もはや有名な話だがタイ王国の首都の正式名称は「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタ(略)」とカタカナ表記で120文字以上もあってとても長いので、一般的には「クルンテープ」と呼ばれる。「バンコク」というのは、外国人だけが使っている地名で、バンコクがまだ漁村だった15世紀ころに外国人が使い出した呼び名だという。いわば東京を江戸と呼ぶようなものだけど、外国人がそう呼びたいならば敢えて訂正しないでおこう、という大人の態度をタイ人達は示している。

さて、発音の難しい「トラート」の市場にあった屋台で昼飯を食べた。

トラート屋台


タイの飲食店の店頭には、写真のように食材を並べてあることがある。客は、好みの食材を好みの料理に調理してもらうことができる。写真の看板の上左端には「アハーン・ターム・サング(注文で作る料理)」と紺色で書かれ、その後に、赤色や水色で空芯菜炒めや焼き飯といったメニューが書かれている。

こうした店では、例えば「豚肉とタマゴのスープ、キャベツと豚レバーを炒めてカレー味に」といった好き勝手な注文にもちゃんと応えてくれる。もしタイ語ができなくても、食材を指で示し、あとは飲む仕草(スープだよ)、中華鍋を混ぜる仕草(炒めるだよ)と身振り手振りで注文することもできる。

並んだ食材を見ても食べたい料理を思いつかないときには、私のタイでの昼飯の定番になっている「カオ・パット・サイ・ムー(豚肉入り焼き飯)+パット・パッカナー・サイ・ムー・グローブ(カナー菜と豚バラ肉揚げの炒め)」を注文する。店や食材によって値段は異なるが、地方の屋台ならば2つで200円程度。この2つの料理はどんな店でもメニューに載っているし、絶対に“ハズレ”のない料理なので安心して注文できる。

2003パッカナー-タラート-タイ


タイの焼き飯には、何故かキュウリが必ず添えられている。それも彫刻刀のようなV字型の刃物で丁寧に皮を剥いているらしく、輪切りになったキュウリの縁が歯車のようにギザギザになっていることが多い。キュウリにはビタミンCが多く含まれているが、キュウリの皮にはそのビタミンCを破壊する酵素が含まれているという。だから、キュウリを皮ごと食べるとビタミンCが相殺されてしまう、という話を聞いたことがあるが、ビタミンCを破壊されないように皮を剥いているのかどうかはわからない。

パット・パッカナーは、パット(炒める)・パック(菜っ葉)・カナー(中国名が芥藍菜という野菜で、茎がアスパラガス、葉は分厚いほうれん草といった食感の野菜)と3つの言葉の複合語で、「カナー菜炒め」という意味。ひと口大に切ったカナー菜と油で揚げた豚バラ肉の塩漬け、調味料(魚醤・豆鼓・化学調味料・唐辛子など)を合わせておき、ガンガンに熱した中華鍋に油を入れて材料を一気に投入。1メートルほどの炎が上がったら数回かき混ぜて出来上がり、という炒め方で作られているので、サクサクとした葉の食感、バリバリという茎の食感が楽しい。しかも、魚醤・豆鼓・豚バラと、魚・植物・動物の3種類のタンパク質から作られたアミノ酸が調味料になっているので、野菜炒めなのに深みのある味付けになっている。毎日でも食べたい料理だ。

地図wikipedia

関連記事
スポンサーサイト

『脱DNA宣言―新しい生命観へ向けて』武村政春(新潮新書)

脱DNA宣言


脱DNA宣言―新しい生命観へ向けて』武村政春(新潮新書)

本書は、DNAだけが遺伝子の主役であるとするDNA至上主義に対して「実はRNAが遺伝子で、DNAはそのバックアップコピーに過ぎない」と大胆な主張をしている。もちろん著者も、この主張が“非常識”であり、まだその証拠が少ないことから時期尚早であることはわかっている。

しかし、細胞の核内やミトコンドリア内に止まっているDNAと違って、RNAはメッセンジャーRNAやトランスファーRNA、自力でスプライシングができるリボソームRNAという“RNA御三家”のほかに、マイクロRNAや低分子干渉RNAなどタンパク質合成の設計図にはならないが、なんらかの役割を担っているRNAが多数発見されており、それらは細胞内のあらゆる場所に点在し、まだ解明されていないさまざまな働きをしているらしいことがわかっているという。

確かに、DNAを持たないノロウイルスやエイズウイルスのような「RNAウイルス」の存在を知った時に、DNA無しでも世代交替が可能であるのならば、DNAが遺伝情報の主役であるという定説と矛盾するのではないかと思っていた。

本書によれば、
(1)DNAの材料であるデオキシリボヌクレオチドはRNAの材料であるリボヌクレオチドから合成される。
(2)RNAには、触媒活性を持つ潜在的な能力がある。
(3)DNAを持たないRNAウイルスが存在する。
(4)代謝にかかわる補酵素の多くはリボヌクレオチドを含んでいる。
(5)DNAの複製は、RNAが合成された後で開始される。
といった「証拠」から、RNAのほうがDNAよりも古くからあった、としている。だから「DNAは遺伝情報のバックアップコピーだ」というのである。

フランシス・クリック(DNAが二重らせん構造であることを明らかにしたワトソン=クリックのクリック)が1958年に提唱した「DNAに書き込まれた遺伝情報は、常にDNAからRNAへとコピーされ、それがタンパク質へと翻訳される」というセントラル・ドグマは逆転写酵素(RNAからDNAへとコピーするための酵素)の発見で修正を余儀無くされたが、「安倍晋三は岸信介の危険なDNAを受け継いでいる」といったレトリックが存在するように、いまだにDNA至上主義とも呼ぶべき言説が流布している。

ドグマという“教義”を受け入れてしまったことが、これまでどれだけ科学の進歩を阻害し続けてきたのだろうか。

関連記事

 | HOME | 









ブログランキングに参加中です

リンク

お気に入りに追加
このブログをリンクに追加する

最近の記事

にほんブログ村ランキング

ブログ内検索

Loading

カテゴリー


全記事一覧(500件ごと)

カレンダー+月別アーカイブ

ケータイ版URL

QRコード

RSSフィード

プロフィール

Author:pasage
昼食時は「難民」と化して「新書」を片手に、都内各地を彷徨っています。

FC2Ad

Template by たけやん

QLOOKアクセス解析

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。