『凡人として生きるということ』押井守 (幻冬舎新書 お-5-1)
2008-12-20

『凡人として生きるということ』押井守 (幻冬舎新書 お-5-1)
この本は居酒屋談義である。たちの悪いことに、酔いに任せてどこかの課長が部下に話すような説教節である。課長の居酒屋談義が見苦しいのは、どんなに愚かなことを言っても絶対に部下からは反論されない権力構造に立ってたわごとを繰り返すからだ。自らの経験と浅薄な知識に基づいた、中学生にも簡単に論破されるような、論理がボロボロのたわごとを聞かされ、読まされるのはつらい。
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(ウォシャウスキー兄弟が『マトリックス』の参考にしたというのは有名だ)と 『アヴァロン』(ゴミだった)しか観ていないので、映画監督としての押井守の才能はよくわからない。しかし、この本はひどい。
著者は、ワイドショーのコメンテイターや評論家をたびたび批判しているが、あれはショー(見せ物)なのだから出演者は観客が喜ぶ役割を演じているに過ぎない。そもそも、番組の最後に「占い」を放送するような番組を報道番組と勘違いしているというのはどういうことか。
テレビで観た事象を半可通で事実理解も間違ったままのあやふやな知識しかなく、それについての単なる感想を「検証」や「考察」としているのである。
どうやら著者は、ニートと呼ばれるような引きこもりの若者たちを読者に想定しているようだが、結論は「全体の5%しかいない天才は別だが、95%のお前らは凡人なのだから凡人らしく生きろ」ということらしい。押井の言う「凡人として生きること」とは、(オタク達のように)熱中する対象を持ち、社会と関わり合いを持ち、人生の選択を避けずに生きろ、という全く新鮮みない人生訓なのだった。
おそらく本書は押井守が執筆したのではなく、押井が何時間かしゃべった録音をライターが文章にしたものなのだろう。それに2008年夏に公開された押井の映画『スカイ・クロラ』の宣伝のために出版されたものなのだろう。
本を執筆するからには、普通は事実関係を「調べる」はずだ。本書は、うる覚えの事象について改めて調べたところは全くない。ところが、各章末には誰でも知っているような映画監督や作品の解説がついている。なぜこんな無駄な注をつけたのか? 担当編集者はそうとうな阿呆なのだろうか。それとも押井の愚かさを明らかにすることが目的だったのだろうか。
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