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『曲がり角の日本語』水谷静夫(岩波新書 1304)

曲がり角の日本語


『曲がり角の日本語』水谷静夫(岩波新書 1304)

著者は、元東京女子大教授の国語学者で『岩波国語辞典』の編纂者。帯の裏表紙側には、いまどき珍しい長いあごひげのお爺さんの写真が掲載されていた。

日本語が曲がり角になっている事例として、辞典編纂者としての視点から何か面白いエピソードが書かれているのかと読み始めると、その通りに七五調の乱れや待遇表現(いわゆる敬語も含まれる)の乱れ、「~させていただきます」といった責任回避の表現の濫用などについてエッセイ風の記述が続く。

敬語を含んだ待遇表現の乱れについては、著者の言うとおり、敬語の誤用で気持ちの悪い思いをすることは少なくない。コンビニやファストフードの心のこもっていない敬語が誤用だったりすると、「間違っているよ」と指摘したくなったり、「責任者出てこい!」と怒鳴りたくなることも少なくない。

しかし、著者は大学での教え子たちが俳句や和歌を作れなかったことから、最近の若者は七五調のリズムに馴染みがないかのように書いているが、むしろ我々の言葉のリズムはまだまだ七五調に支配されており、七五調はむしろ我々の血肉となっているのではないか。交通標語のようなものはまだ七五調だし、新聞に一般から投稿された七五調の俳句や和歌が大量に掲載されている国はほかにはないらしい。

「第3章 文法論をつくり直せ」でいきなり橋本進吉の橋本文法を元にした「学校文法」への激しい批判と、新しい文法論が展開されてびっくりさせられる。曲がり角の日本語を正すためには、文法論が重要だとしている。

例えば、「英語が読める」「英語を読める」「酒が飲みたい」「酒を飲みたい」というのは、「英語」や「酒」が主語であっても目的語であっても正しい用例である。従来の文節的構文論ではうまく説明できなかったが、著者は、下記の方程式で説明できるとしている。

 (英語)が((読mu)*eru/u)  → 英語が読める
 ((英語)を(読mu))*eru/u  → 英語を読める
 (酒)が((飲mu)*iたい/u   → 酒が飲みたい
 ((酒)を(飲mu))*iたい/u  → 酒を飲みたい

   YOMu*eru/u = YOMeru (Muのuを分母のuと約分する)
   NOMu*iたい/u = NOMiたい (Muのuを分母のuと約分する)

学校文法では、「文」の必要条件を「主語+述語」と習うが、日本語以外にも主語を必要としない言語はいくらでもある。主体を明らかにする必要がある場合にだけ主語を使うが、学説によって主語が違う例もある。例えば、

 彼女は才能がある。

この文は、「彼女」あるい「才能」のどちらかを主語であるとする説と、主語はないとする説がある。英語ならば「She has a talent.」だから当然「She」が主語であるから簡単だが、日本語はそれほど単純ではない。

 「私は私のズボンの右ポケットから私の恋人の写真を私の右手で取り出した」

と、くどくどと「格」を付けなければならないのがヨーロッパの言語だが、日本語に翻訳すれば

 「ズボンの右ポケットから恋人の写真を取り出した」

とシンプルに言える。「右手はどうした」と心配しなくても、右ポケットから写真を取り出すのは「右手」に決まっているから、わざわざ言わなくても良いのだ。

そもそも「主語」が必要不可欠でありとして、主語を欠いた文であるとか主語が隠れているとすることこそ、ヨーロッパ語の枠組みに基づいた発想ではないか。主語がないのが常態であり、主語を付加するのを主語付加文とする発想はないのか。

丼屋を数名で訪れて、天丼やカツ丼を誰かが注文した後で

 私はうなぎ。

と注文するのはヨーロッパ語ではありえない表現だが、日本語として何の問題もない。有名な「うなぎ文」であり文法的にも正しいはずだが、これは「(うなぎ)丼にする。」という述語を省略した形だと言われる。しかし、省略したのではなく、日本語では主語を欠いた表現が可能であるのと同様に述語を欠いた表現も可能なのだ。

「欠いている」や「隠れている」「省略」といった言葉からは、「正確ではない」という判断が現れているが、欠いているのが常態の日本語からすれば、わざわざ付け加えなければ意思を伝えることのできない状態を主語付加文や述語付加文と呼ぶべきなのではないだろうか。

「第4章 日本語未来図」では、曲がり角に来ている日本語の21世紀の終わりごろの日本語の変化を予測している。「に」と「で」の格助詞の変化、「ら抜き言葉」の合理性、責任回避の表現の多様化などを予測した上で「自浄作用に期待しよう」としている。現代の言葉遣いすらよくわからないのに、70年先(なぜ70年先なのか)を予測しても意味があるとは思えない。コンピュータによるシミュレーションの成果を自慢をしているようにも思えた。

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