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『ふしぎなふしぎな子どもの物語―なぜ成長を描かなくなったのか?』ひこ・田中(光文社新書 535)

ふしぎなふしぎな子どもの物語


『ふしぎなふしぎな子どもの物語―なぜ成長を描かなくなったのか?ひこ・田中(光文社新書 535)


著者は児童文学作家。テレビゲームやウルトラマンや仮面ライダーなどのテレビヒーロー、テレビアニメ、まんがといった子供向けに制作された「物語」の歴史や市場への受容、ドラマツルギー、制作の背景にまで迫って詳細な分析を見せる。

ひとことで言えば、1960年代から2000年頃までに作られた子ども向けのこうした「物語」は、主人公の成長物語であったということである。ただし、制作者側が受け手である子どもの対象年齢を意図的にずらして、自らの政治的な思想や明らかに幼児向ではないテーマを潜りこませることはあった。そのため、『宇宙戦艦ヤマト』のように、当初のテレビ放映では視聴率が上がらず打ち切りになるような作品も少なくなかったが、映画化や再放送で新たな人気を博した作品もある。

また、フジテレビで放映されていた「世界名作劇場」へは厳しい批判を投じている。1979年の「赤毛のアン」で始まったこのシリーズは、暴力やドタバタには無縁の世界的名作児童文学を原作としており、親たちから支持されただけでなく、『子ども白書』までもが絶賛したが、1997年の「家なき子レミ」で終了した。

「世界名作劇場」は、親や官僚たちにとっては、自分の子供時代に読んだ懐かしい児童文学を原作にした喜ばしいアニメだったが、子供たちに喜ばれていたわけではなかったからだ、と著者は指摘する。しかもその内容は、半数以上が孤児や両親の揃っていない子供の物語だった。というのも、そうした児童文学は19世紀末から20世紀初頭に書かれたものだったからである。

フィリップ・アリエスが指摘したように、近代以前は欧米では子供は〈小さな大人〉でしかなかった。近代化によって多くの子供が教育を受けるようになると、彼らに向けた物語が書かれた。それはペローやグリム兄弟が文章化した昔話や神話ではなく、近代化の波をもろにかぶっている当時の子供たちの姿だった。

「世界名作劇場」を喜んだ親たちが子供だった頃には、日本も戦争を終えたばかりだったので、孤児や不遇な子供の姿は身近でリアルなものだった。しかし1980年代から1997年といえば高度経済成長も絶頂を迎え、バブル経済にまで発展した時期である。パックス・ジャポニカを享受していた子供たちに、前世紀の貧乏臭い可哀想な子供に感情移入しろといっても無理な時代だった。

著者によれば、「世界名作劇場」で採り上げられた名作にしろ、他の児童文学にしろ、孤児や片親の主人公はいても、両親が離婚した子供の物語は1975年頃まで書かれなかったという。グリム兄弟が「白雪姫」で娘の死を願う実母を義母に書き換えたように、子供とのつながりを拒否する親は登場しても、離婚によって家庭が崩壊する姿は描けなかったのである。現実には近代以前にも離婚はあったし、現在ほど身近ではなかったのだが、子供に与える物語では、家庭は安全・安心の存在として描かれたからだ。

そして、2000年前後から子どもの物語から「成長」というテーマが失われる。それは、テレビゲーム・アニメ・マンガに共通したことだったという。

その原因として著者は2つ挙げている。経済化と情報化である。経済化に関しては説明が不十分だが、情報化はわかりやすい。情報伝達メディアの発達によって、知識の習得に必須だった経験・体験が不要になっている。大人でなくとも、専門的な情報に簡単にアクセスでききるようになっており、経験を積んだ大人の特権的な知識は揺らいでいる。成長して大人になる必要はなくなったのだ。

さらに著者は「大人」という概念にも疑問を呈している。近代以降の大人とは、子どもの対義語として子どもの発見と共に生まれたのではないかというのだ。

ただし、著者がアイデンティティ(自己同一性)について従来通りの解釈をしている点が気になった。1968年にエリク・エリクソンがセルフ・アイデンティティという概念を提示するまでは、個人は社会の構成員として社会のさまざまな人々や慣習と切れ目なくつながっているとされていたから、セルフ・アイデンティティを確立する必要もなかったし、「自分は何者か」と混乱することもなかったのではないか。

一世を風靡した自己同一性は、19世紀末に書かれた多くの児童文学の主人公と同様に父親を知らずに母の母国デンマークではなくドイツに育ち、かつデンマーク系ユダヤ人という2重の異邦人として差別を受けたエリクソンの個人的な懊悩が生み出した幻影に過ぎなかったのではないか。

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