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『天皇陵の謎』矢澤高太郎(文春新書 831)

天皇陵の謎



『天皇陵の謎』
矢澤高太郎(文春新書 831)


天皇陵といえば、日本最大の前方後円墳である「仁徳天皇陵」を思い浮かべるが、最近は「大仙陵古墳」と呼ばれる。

宮内庁は被葬者を仁徳天皇であると治定しているが、天皇は後代の諡号だとしても、そもそも仁徳天皇の実在に疑念が生じているだけでなく、多くの点で被葬者を仁徳天皇とする証拠がないためだ。

日本という国がどうやって誕生したのかを考える手がかりとして、古墳、とりわけ天皇陵ほど重要な遺跡はないはずだ。初代神武から第124代昭和まで、宮内庁はすべての天皇の墓を定めて管理している。しかし、これが話にならないくらい杜撰なことになっているという。

本書で扱っている初代から第42代文武までの天皇陵に限っても、合わせて40基あるが、その40基のうちの約9割は被葬者が怪しいという。ほとんどの研究者が、そこに陵名の天皇が葬られているとは見ていないのだ。

例えば、出土品によって造られたのは継体天皇が没した年より100年ほど古いとされ、明らかに誤っている太田茶臼山古墳を、宮内庁は継体陵と治定していて改めようとしない。

学会の定説では、現継体陵から1.5キロの今城塚古墳が継体陵であるとされているが、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定を拒んでいる。宮内庁は、旧慣墨守によって継体天皇への冒涜を続けているのだ。

宮内庁による陵墓の治定の根拠となっているのは、『日本書紀』と『古事記』、『延喜式』の記述や、幕末期に「山陵家」という民間の古墳研究者たちが調査した結果に負っているという。江戸幕府は、文久年間に各藩に命じて陵墓の修復を行なっているが、これも山陵家たちの研究によるものである。そして、明治政府もそのままに陵墓を定めている。つまり、明治以降の考古学の成果はほとんど活かされていないのである。明治14年に天武・持統合葬陵が見瀬丸山古墳から野口王墓に変更されたことが、唯一の例外だという。

2009年から2010年にかけての奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳の発掘では、大きな発見があった。形態が完全な8角形であることが証明されたのだ。八角墳は、7世紀半ば以降の天皇陵のシンボルである。つまり、この古墳が天皇陵である可能性が一気に高まったのだ。被葬者として第37代斉明天皇が確実視されている。

しかも、その後の発掘で、この牽牛子塚古墳のすぐ傍に小さな古墳が発見された。『日本書紀』に、斉明陵の前の墓に孫の大田皇女が葬られたとある通りに、孫娘の墓まで出てきたことになる。

 これだけの成果がありながら、宮内庁は無関心を装っている。宮内庁が車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵と治定している根拠は、(1)この地が「天皇山」と呼ばれていたものが訛った、(2)陪塚がある、(3)斉明陵が崩落したという記述が古文書にある、という程度のものらしい。

発掘の当事者である明日香村教育委員会の発表には、宮内庁に配慮したためか斉明天皇の名前は書かれなかったという。しかし、現在の同委員会のホームページには「古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力です。 」と書かれている。


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