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昼食難民の新書生活

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『瓦礫の中から言葉を―わたしの〈死者〉へ』辺見庸(NHK出版新書 363)

瓦礫の中から言葉を


『瓦礫の中から言葉を―わたしの〈死者〉へ辺見庸(NHK出版新書 363)


すでに言い古されたことだが、東日本大震災以降、善意と全体主義を強要する「絆」や「つながり」といった言葉が安易に消費され、涙を誘う美談ばかりが繰り返されている。

自然の圧倒的な破壊力と原発へのあまりの無防備さに誰もが言葉を失ったが、安易なキーワードや知られざるエピソードを蕩尽することで、あの悲劇を血肉化することはできないはずだ。物理的な復興を遂げるのと同時に、約2万人もの命を一瞬にして失った大災害を語る言葉が必要だと誰もが感じているのではないだろうか。

辺見庸は、独自の言語感覚で事象のさまざまな局面を私たちに示してくれている作家であり、中原中也賞や高見順賞を受賞した詩人でもある。辺見は、大学進学で上京するまでの18年間を岩手県石巻市南浜町で生まれ育った。東日本大震災による津波で石巻市は甚大な被害を受けたが、なかでも石巻湾に近い南浜町は壊滅的な被害を受け、親戚や友人が命を落としたという。

辺見は、真っ先に駆けつけて親戚や友人を助けたいと考えただろう。しかし、脳出血による後遺症で右半身が自由にならないため、本書の執筆時点ではまだ現地に赴けていないという。

大震災と原発メルトダウンから1年を経て本書は書かれたが、「橋-あとがきの代わりに」で本書のテーマを「言葉と言葉の間に屍がある」と「人間存在の根源的な無責任さ」であると書いている。

辺見は2011年初めに、2010年の夏に熱中症で孤独死した老人の直腸が39度の熱があったという話に続けて、震災と原発メルトダウンを予覚するような文章を書いている。

世界の未来はかつては①ありえないこと(the impossible)②おこりうること(the probable)③避けられないこと(the inevitable)ーーの三つに大別できた。しかし、いま①は消えかかっている。もはやありえないことは、ありえないのだ。(略)すさまじい大地震がくるだろう。それをビジネスチャンスと狙っている者らはすでにいる。(略)テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になっていくであろう。ひじょうに大きな原発事故があるだろう。(「標なき終わりへの未来論」『朝日ジャーナル』2011年3月15日発売より)p.67

想定外や未曾有というthe impossibleは、辺見が予覚したとおりにありえなくなってしまった。可能性の低いからといって、経済性を優先することがどれだけ危険かを私たちは知ってしまった。

そして、辺見は大震災と原発メルトダウン以降、同じ夢をたびたび見るという。

それは、地平線まで広がっている黒い瓦礫の原にたったひとりで立ちつくしている私の夢でした。(略)私は足もとの屍体や影やおびただしいモノたちをいちいち指さして、懸命になにか言おうとしているのですが、どうしても言えないのです。声が出ないということではありません。言おうとしている言葉が、指さしている屍体や影やモノをどうしても指示せず、それらの存在と一致せず、それぞれを裏づけず、ひとつひとつを担保もしないのです。わたしは口をパクパクし、しきりに指さすのですが、言葉と対象がまるで合致しないのです。(p.138)

失語症の夢は、「言葉(概念)があるのに実体(または実態)がないこと、またはその逆が、しばしばどころか世界中に蔓延しています。」と説明される。

辺見の書いた文章が私たちの心を打つのは、命がけで言葉を探しているからである。本書では、広島で原爆投下に遭遇した原民喜の『夏の花』、ラーゲリ体験にナチのジェノサイドを重ねて死について考察した石原吉郎の『望郷と海』『続・吉原吉郎詩集』、関東大震災で燃え上がる東京を見た川端康成『空に動く灯』、堀田善衛『方丈記私記』といった作品の中から大震災を語るための言葉を浮かび上がらせようとしている。

「言葉と言葉の間に屍がある」とは、堀田善衛の『橋上幻像』の「彼ラノアイダニ一ツノ屍ガアル、というのが直訳なんだけど、ほんとは、彼ラハグルニナッテ何カヤッテイル、って意味なのよ」という一節からの連想したアフォリズムだという。そして、「人間存在の根源的な無責任さ」も同じく堀田善衛の『方丈記私記』にある一節だという。東京大空襲から四半世紀後に書かれた随筆だ。他者の死や不幸に、何ら責任を取ることができないという諦観であるが、辺見は普遍化された「人間は」ではなく、「わたしは」と言うべきだとしており、「あの死者たち」と総称するのではなく、「わたしの死者たち」と呼んでいるのである。


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