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『ラカンの精神分析』新宮一成(講談社現代新書)

ラカンの精神分析


『ラカンの精神分析』新宮一成(講談社現代新書)

対象a、鏡像段階、象徴界、現実界、想像界、大文字の他者など独自の概念で精神分析の新しい地平を拓いたとされるラカン。著作は『エクリ』1冊だけなので、講義録によってその理論が紹介されている。本書は、難解とされるラカンの入門書としてかかれた。

独自の理論を構築しながら、著作を残さなかったといえばソシュールを思い出す。情報伝達の手段として、「語り」と「書くこと」は大きく異なる。書くことのできなかったような人物が、歴史に残る理論を構築するとはどういうことなのだろう。そういえば、キリストや仏陀も著作は残していない。大本教や天理教も教祖は書かなかった。

本書の前半は、対象aなどラカンの用語解説が進む。中盤からラカンが精神分析を“科学的”にするために用いた数式による解説になる。これがトンデモ風だ。こんな単純な数式で、複雑で多様な人間の精神を一般化・抽象化したと言えるのだろうか。衒学的といわれてもしかたがないだろう。

■■以下メモ(必ずしも、抜き書きとは限らない)

p.26
◆自動書記
ラカンが師事したパリ警察の監察医ガエタン・ドゥ・クレランボーは、あらゆる妄想・幻覚の底に潜む、「精神自動症」という精神現象を深く研究した。精神の中に、個人を越えた自動的な観念の運動を認める点で、彼の概念は、彼の意図したところを越えて、シュールレアリスムの「自動書記」をはじめとする無意識の概念につながっている。

p.78
◆人間の自己規定の仕組
1.人間は人間でないものを知っている。
2.人間たちは人間たちであるために互いの間を認める。
3.私は人間たちによって人間でないと証明されるのを恐れながら、自分は人間であると断言する。

p.106
◆子供時代は、もう無い
フロイトは『夢判断』の中で「子供時代は、そのもとしては、もう無い。それは夢や転移によって、代理されている」と書いた。私の今の身体が、私の父と母の手の中で赤ん坊であった一つの存在とつながっているということを、私自身はもはや経験できないのである。

p.130
◆他者の欲望
患者さんたちにあっては、「他者の欲望」は、何らかの公的な基盤(国家的意図など)を持ちつつ、まっすぐに彼らを目ざしてやってくる。そして「他者の語らい」は、幻聴として、実際に耳に聞こえてくる。患者さんたちは、他者の欲望を、自分を苦しめるものとして経験している。しかし同時にそれは、人生を生き続けるための根拠となっている。妄想化された他者の欲望と患者さんという人間の間の異様な近さは、他者の欲望を通じてこそ彼らが人生を主体化しようとしていることを十分に物語っている。

p.131
◆意味の過剰
意味を欠くことを本来の特徴とするはずの他者の欲望は、患者さんたちにあってはむしろ意味の過剰を背負わされている。しかし彼らの証言は、他者の欲望を受けるということの中に、ある種の独特の苦痛があるということを正しく伝えてくれている。

p.132
◆他者の語らい
他者の語らいは私についての語らいであるにもかかわらず、私に意味を伝えない。意味が伝わってこないまま、それでも他者の語らいは、私について、なされ続ける。そのような語らいを行い続けること自体が他者の欲望であり、その無意味な欲望を私は負う。

p.133
◆シニフィアンと対象a
言語という他者と人間主体との間の最も中心的な関係は、人間が自己自身を示す言葉(シニフィアン)を持っていないということの中にある。この欠如に直面して、人間は自分自身を、言語という他者にとっての欲望の対象として経験することになった。この経験が人間にとって新に現実的と言えるものである。主体と言語活動との間の不幸な関係がなければ、その不幸を埋め合わせるための現実として対象aが創造される必然もなかったのである。

p.169
◆鏡像段階論
人間は生まれてからしばらくの間、身体の各部分を有機的にまとめ上げる神経系の機能が未発達である。(略)身体の統一的知覚の完成は遅れ、とくに、自己の身体が空間の中である形を保ち、外界の空間と一定の関係を保っているという知覚、すなわち姿勢覚や自己固有覚は、幼児が立って歩けるようになる前には成人と随分異なったものであることが想像される。

p.190
◆象徴界
普遍の中で自己とは何なのかと問いかけ、それに答えようとすること、それは、自己を消し去り、幻の存在へと化し、それをたとえば数のような純粋な形式や「存在」のようなきわめて要素的な概念によって、再び認め直す過程へとつながった。自己にとっての自己の顕現を可能にする在と不在の交代の構造。在と不在という透明で形式的な動きによって進められる、自己の象徴化の過程。

p.191
◆想像界
鏡像としての他人の中への、囚われの関係。自己を象徴化するものとして鏡像段階の中に含まれた、どうしても完全には取り去ることのできない「短絡路」である。

p.203
◆現実界
自己の象徴化の範囲の極限に当たるところに、この範囲にとって不可能なものが、組み込まれている。このように、自己を象徴化する理性が、自己にとっては不可能であるのに、それに対して関係を結ばざるを得ないような外部。


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