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『カラー版 北斎』大久保純一(岩波新書 1369)

カラー版 北斎


カラー版 北斎』大久保純一(岩波新書 1369)


葛飾北斎は、1998年に米国『ライフ』誌が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に、日本人でただひとりだけ選出されている。ジャポニズムのきっかけを作り、ゴッホなどの印象派の画家たちに影響を与え、ドビッシーは『海』を「神奈川沖浪裏」を見て作曲したといわれる。浮世絵好きでなくとも、日本人ならば知っておかなければならない偉人なのだ。

生涯に93回以上引越しをしたり、30回以上も改号するなど、とかく奇行や奇癖が伝えられる北斎だが、本書は飯島虚心『葛飾北斎伝』や葛飾北斎美術館長の浮世絵研究家永田生慈など先学の研究を踏まえて、学術的かつ客観的に紹介されている。60点を超える美しいカラー図版を使い北斎の作画技法から、当時の出版流通事情まで詳しく解説している。

著者は、葛飾北斎の画業を勝川春章の弟子となった春朗時代から、勝川派と決別して摺物(狂歌師の自費出版や芝居小屋のチラシ)と狂歌絵本の人気作家となった宗理時代、再び浮世絵の本流へと戻った北斎時代、錦絵を手がけた為一時代、晩年と5つの時代に分けて解説している。

【目次】

第1章 浮世絵師になる―春朗時代
第2章 摺物と狂歌絵本―宗理様式の時代
第3章 再び浮世絵の本流へ―北斎の時代
第4章 天保の錦絵―為一時代
第5章 晩年の北斎


北斎は、浮世絵師から黄表紙の挿絵、摺物を手がけるようになり、やがて曲亭馬琴の読本の挿絵で挿絵画家として不動の地位を得る。このころ、琳派の号である宗理を名乗るようになるが、琳派の技法を独学で習得していたのだ。

再び浮世絵を描けるようになり、やがて定規とコンパスだけで絵を描く手引きである『略画早指南』やカット集である『北斎漫画』といった絵手本を手がける。そのころの庶民たちが絵を描く楽しみを覚えたためイラスト集の需要が高まっていたからだという。

北斎の代表作とされ、実は46作品ある『冨嶽三十六景』が刊行されたのは、北斎が71歳の時だった。斬新で緊張感のある構図は、どこから生まれたのか。著者は、北斎が銅版画や西洋画を学んだ経緯を丁寧に説明している。もともと、西欧絵画の透視図法を取り入れたことで生まれた浮き出す版画が錦絵だが、北斎は透視図法だけでなく、銅版画や司馬江漢が挑戦した油絵の作画法を学んでいたのだ。

北斎の三女・お栄は離縁された後に北斎と一緒に暮らし、制作助手を務めていたという。葛飾応為という号をもつお栄は、「美人画にかけては応為にはかなわない」と北斎に言わしめるほどの画才があったとされ、晩年の肉筆美人画は北斎のお栄が代作したとも伝えられているがまだその研究は進んでいないらしい。

北斎は、臨終に際して「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし」と言って息を引き取ったという。当時としては、非常に稀な長寿であった90歳になっても、「あと5年の間、命を保つことが出来たなら、必ず真正の画工になりえただろう」と言い残すほど、現状に満足せず向上心を忘れなかったのだ。



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