TOP > スポンサー広告 > 『新・ローマ帝国衰亡史』南川高志(岩波新書 1426)TOP > 新書 > 『新・ローマ帝国衰亡史』南川高志(岩波新書 1426)

昼食難民の新書生活

(新宿・秋葉原・芝浦など各地でのランチと読書)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『新・ローマ帝国衰亡史』南川高志(岩波新書 1426)

新・ローマ帝国衰亡史



『新・ローマ帝国衰亡史』南川高志(岩波新書 1426)


栄華を極めたローマ帝国はなぜ滅びたのか、という課題は欧米人にとって重要なテーマであり、衰亡の原因について700を超える学説が挙げられているという。なかでも18世紀末に書かれたギボンの『ローマ帝国衰亡史』は、大著であり名著として名高い。

これほどまでに、人々の興味を惹き付けている背景には、ヨーロッパはローマ帝国によって築かれた、という共通認識があるからだ。ヨーロッパの街の多くは、ローマ帝国の要塞や集住地が起源である。ドイツのケルンはコロニア(植民市)が名前の由来だし、イギリスにあるチェスターという地名はラテン語で陣営・砦を意味するカストラから転じた呼び名だという。ローマ帝国は、単に軍事力で周辺の蛮族を平定しただけでなく、公用語や法律、度量衡を整備し、高度な土木技術で都市のインフラを築き、ヨーロッパ各地に都市を築いたからだ。

著者は、京都大学教授のローマ史研究者。本書は、ギボン以降のローマ史研究を踏まえて、4世紀から5世紀にかけてのローマ帝国の衰亡の過程を鮮やかに描き出している。

【目次】

序章 二一世紀のローマ帝国衰亡史
第1章 大河と森のローマ帝国
     ―辺境から見た世界帝国の実像
第2章 衰退の「影」
     ―コンスタンティヌス大帝の改革
第3章 後継者たちの争い
     —コンスタンティウス二世の道程
第4章 ガリアで生まれた皇帝
     —「背教者」ユリアヌスの挑戦
第5章 動き出す大地
     —ウァレンティニアヌス朝の試練
第6章 瓦解する帝国
     —「西」の最後
終章 ローマ帝国の衰亡とは何であったか


ローマ帝国といえば地中海帝国というイメージだが、実際にはローマから1500キロ離れたライン川東岸まで版図を広げており、地中海沿岸は帝国の一部に過ぎなかった。のちに東ローマ帝国と呼ばれる現在のトルコ周辺は、長期にわたってペルシャの圧力を受け続けたが、帝国の衰亡はライン川・ドナウ川という大河と広大な森林を抱える属州から始まった。

一般的には、北方からのフン族に追われたゲルマン人が大挙してローマ帝国に移動し、帝国の西半分を滅ばした、という「ローマ」対「ゲルマン」の二項対立で説明され、学校でも「ゲルマン民族の大移動」と習った記憶がある。

しかし、そもそもゲルマン民族という民族は存在しなかったし、ゲルマン人という呼称もローマ人による他称で、ライン川やドナウ川の北側に居住していた諸民族に対する総称で「蛮族」という程度の意味らしい。

ローマ帝国は階級社会だった。皇帝、元老院議員、騎士、属州の都市参事会員、自由人、奴隷というヒエラルキーが厳然とあったが、インドのカースト制のような固定化した制度ではなく、流動性があったという。奴隷でも主人の遺言で解放奴隷となり、その子孫が自由人から騎士、元老院議員まで、実力と幸運に恵まれれば上り詰めることもあったらしい。

そもそも「ローマ人」という市民権も流動性があった。ローマで生まれた自由人は自動的に市民権を与えられたが、ローマから遠く離れた属州で兵士になっても兵役を終えれば、ローマ市に登録されて市民権を得ることができた。すると、ローマ市はもちろんイタリア半島すら訪れたことのない「ローマ人」が登場するようになった。

ローマ史研究のサイムは、ローマ帝政時代初期に中央政府に参加するようになったイタリアの地方都市や属州都市出身の新興エリートを「新しいローマ人」と呼んだという。著者は、これに倣って3世紀にローマ帝国の統治を担うようになったドナウ・バルカン地方の軍人たちを「第二の新しいローマ人」と、さらに、4世紀にコンスタンティヌス大帝が先鞭をつけ、ユリアヌスが登用を進めた新興の有力者を「第三の新しいローマ人」と名づけている。

著者によれば、この「第三の新しいローマ人」こそが、ローマ帝国の衰退をもたらしたのである。

また、ローマ帝国はその版図も線状の国境ではなく、帯状のファジーなゾーンで辺境と接していた。ライン川やドナウ川には属州の軍隊の駐留地が最前線ではあったが、平時には周辺の諸民族の行き来は自由で、交易が行われていた。

著者は、担い手も境界も曖昧なローマ帝国を実質化した要素として3項目を挙げている。

1.軍隊、特に「ローマ人である」自己認識を持つ兵士たち
2.「ローマ人である」に相応しい生活の実践
3.支配を共にする有力者の存在

ローマ帝国に統合を与えていたのは、「ローマ人である」というアイデンティティと考えたい。ローマ帝国とは、広大な地域に住む多様な人々を、「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下にまとめ上げた国家であった。(p.202)

しかし、異民族出身者たちが「ローマ人である」ことの絶対的な優位性に疑いを持ち、自らのエスニシティを意識し始めるなかでローマ帝国の瓦解が始まる。

著者はローマ帝国衰退の原因を招いたとして、コンスタンティヌス1世(大帝)を挙げている。ローマ帝国の東半分を支配していたコンスタンティヌスは、西半分の皇帝ディオクレティアヌスを破り、東西の統一を果たした。東半分は元老院議員を排除して直接支配を強化できたが、西半分は異民族出身の軍人を登用しながらも父親の代からの支援者である属州の地元有力者との妥協によっていた。また、コンスタンティヌスはライン辺境に近接したフランク族やアラマン二族などを帝国軍に積極的に登用したが、帝国政治に関わる者がこうした人材に対して「ゲルマン人」「蛮族」として敵意を抱くことになった。

401年に黒海の北側からフン人が西進し、押し出されるかたちでゴート族がドナウ川を越える。ローマ帝国はガリアやブリテン島から軍を集めて対抗するが、405年にゴート族軍はアルプスを越えて北イタリアに侵入する。著者は、これこそが衰亡の始まりと見ている。続いて、アラマンニ人やスエウィ族、ヴァンダル族、アラマンニ族、ブルグンド族が次々とドナウ川やライン川を越えてガリアからイベリア半島までに侵攻し、409年にはサクソン族の侵攻でブリテン島の支配権を喪失し、ローマ帝国の統御能力が失われたのだ(p.190)。

こうして、423年のホノリウス帝の没後それほど時を経ずして、ローマ帝国は西方において、イタリアの一地方政権に落ち込んでいったのである。(p.200)

アドリアノーブルの戦いでゴート族に大敗北した378年から、ごくわずかな期間に帝国西半の支配権は失われたのだ。

広大な版図の帝国は、同一の文化を有する少人数で直接支配することはできない。異なった生活文化や言語、宗教で暮らしている多様な異民族を圧倒するほどの魅力があり、異民族から有能な人材を中央政府に登用したり、異民族の有力者との共犯関係による間接支配が必要だ。しかし、5世紀に入るとローマ帝国西半では、「排他的ローマ主義」によって求心力を失ってしまったのだ。

ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく「自壊した」のだ。「ローマ人である」というアイデンティティのもとに、曖昧な境界を持ち、多様な異民族を包括することが国家の理念であった帝国が、「排他的ローマ主義」という偏狭な差別と排除の論理に陥った時に国家としての行動は視野狭窄で大国に相応しいものでなくなり「帝国」としての魅力と威信を失った、としている。

著者は「あとがき」で、読者の中には「ローマ帝国に仮託して現代のどこかの国を描いているのではないか」と考えるかたもいるかもしれないと書いている。どんなに繁栄を極めた国もいずれ衰える。現在、覇権を握っているアメリカ合衆国やロシア、中国だって、寄せ集めの多民族・多文化国家だから国民統合の理念に疑問が生じれば、ローマ帝国と同様にあっけなく瓦解するだろう。日本だって「帝国」を名乗れたのはごく短い期間に過ぎなかったし、「単一民族」を言い募っても国民統合の理念というものが果たして本当に存在するのかは疑わしい。

西欧人のみならずローマ帝国衰亡の歴史は、国家の存在意義を考え直すための有効な補助線になるのだ。


関連記事

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://pasage.blog43.fc2.com/tb.php/1697-062093f2

 | HOME | 









ブログランキングに参加中です

リンク

お気に入りに追加
このブログをリンクに追加する

最近の記事

にほんブログ村ランキング

ブログ内検索

Loading

カテゴリー


全記事一覧(500件ごと)

カレンダー+月別アーカイブ

ケータイ版URL

QRコード

RSSフィード

プロフィール

Author:pasage
昼食時は「難民」と化して「新書」を片手に、都内各地を彷徨っています。

FC2Ad

Template by たけやん

QLOOKアクセス解析

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。