TOP > スポンサー広告 > 『修業論』内田樹(光文社新書 651)TOP > 新書 > 『修業論』内田樹(光文社新書 651)

昼食難民の新書生活

(新宿・秋葉原・芝浦など各地でのランチと読書)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『修業論』内田樹(光文社新書 651)

20140403001758017.jpg


『修業論』内田樹(光文社新書 651)


合気道というと、取り囲んだ弟子たちに全く触れずに次々と倒してしまう“達人”の漫画のような映像を思い浮かべがちだ。合気道には試合がなく、稽古も何の技を使うか同意のもとに行う約束組手なので、相手に触れずに倒すことが可能なのだろう。

といった“偏見”は脇に置いて、本書は、学生時代に合気道の修業を始め、大学退官後には自宅に道場を構える内田樹が書いた「修業論」である。


【目次】

I 修業論—合気道と私見
  第1章 修業とはなにか
  第2章無敵とはなにか
  第3章 無敵の探求
  第4章 弱さの構造
  第5章 「居着き」からの解放
  最終章 稽古論
II 身体と瞑想
  (1)瞑想とはなにか
  (2)武道からみた瞑想
  (3)「運身の理」と瞑想―武道修業のめざすもの
III 現代における信仰と修業
  レヴィナスと合気道
  「感知できないもの」の切迫 ほか
IV 武道家としての坂本龍馬
  (1)修業—なぜ、司馬遼太郎はそれを描かなかったのか
  (2)剣の修業が生んだ「生きる達人」



「修業論―合気道私見」は合気道の専門誌に連載、「身体と瞑想」は仏教系雑誌『サンガジャパン』に寄稿、「現代における信仰と修業」はキリスト教系雑誌『福音と世界』に寄稿、「武道家としての坂本龍馬」は司馬遼太郎を偲ぶシンポジウムのために準備した草稿という構成になっている。

本書は、合気道の身体技法における修業だけでなく、人として生きる上での修業についても語っている。さらに、合気道の修業を通じて得た身体的実感が瞑想や祈りといった宗教の実践と重なり、強くなるとはどういうことか、生きるとはという問いに答えている。

心臓に疾患があり虚弱児だった内田が合気道を始めた動機は、「ストリート・ファイトで負けたくない」ということだった。しかし、「強くなりたい」と思ったのではなく、「自分自身の弱さがもたらす災禍を最小化する」ためだった。

つまり、合気道の修業を通じて開発されるべき能力は「生き延びるための力」であり、「あらゆる敵と戦って、これをたおす」ことではなく、「自分自身の弱さのもたらす災いを最小化すること」が目的だという。

修業とは、「いいから黙ってやれ」という課題を与えられ、処罰も報奨もなし、批評も査定も格付けもなしにやることだ、と内田は言う。しかも、修業の意味は事後的・回顧的にしかわからない。例えば、合気道の「骨盤を倒す」や「股関節を畳む」、「肩胛骨を開く」といった基本的な身体操作でさえ、修業によって獲得するまでは「意味不明」だという。自らの身体で「骨盤を倒す」ことができなければ、いくら言葉で説明されても理解できないからだ。また、修業は、筋肉量や肺活量など数値的な変化によって結果が明らかになるトレーニングやエクササイズとは違うという。

武道は、「天下に敵なし」になることである。「敵」とは、「心身のパフォーマンスを低下させるあらゆるファクター」のことである。対戦相手はもちろん、天変地異、社会制度の不備、イデオロギー、迷信、家族の不和、恋人の裏切り、致死的なウイルスなど、すべてが「私」の心身のパフォーマンスを阻害する点で「敵」となる。これらの「敵」のすべてを「打ち倒す」ことは原理的に不可能である。

武道と競技スポーツの違いについても論考している。格闘技も含め競技スポーツには試合や競技大会といった日程があり、その目標に向かって限られた期間に体を鍛えるが、武道はいついかなる時に戦闘が始まるかわからない状況で、日々の生活そのものが稽古であるような「生き方」を工夫する必要があるのだ。

私たちの生活そのものが、私たちの日々の暮らしが、私たちにとっての戦場であり、舞台の本番であり、生き死にの境なのである。道場はそれに備えるためのものである。稽古は、競ったり、争ったり、恐れたり、悲しんだりすることを免れて、ただ自分の資質の開発という一事に集中することが許された、特権的な時間である。道場はそれを提供するための場である。
そこでの稽古と生活を有機的に結びつけ、わかちがたい一つのものへと編み上げること。生活即稽古、稽古即生活、それが現代の武道修業者のめざす理想だと私は思っている。(p.115)

第II部は武道と瞑想について書いている。武道修業の目的は、想定外の事態の出来に遭遇したときに適切な対応ができることである。最も必要なときに、心身のパフォーマンスが限界を超えて最大化するような「しくみ」を身体に深くしみこませておくことである。どうしていいかわからないときに、どうしていいかわかるような心身の技法を習得することである。

その答えは「瞑想する」ことだと内田は言う。「今・ここ・私」という不動の定点から離脱して、事態を俯瞰的に観察し、何が起きているのかを理解し、なすべきことをなすのが武道的な意味での瞑想である。しかも、観察・理解・なすのは、「私」ではなく自動詞的な主体である。

司馬遼太郎の小説の特徴だが、登場人物がまるで現代人のような合理主義の考え方をしていて違和感を覚えることが少なくない。第IV部では、司馬遼太郎が軍隊での経験の反動から、近代的な合理主義に合わない武道修業の価値を認めず、坂本龍馬が北辰一刀流の免許皆伝の剣豪であったことと、彼の政治家・起業家・オピニオンリーダーとしての資質が無関係であるとみなす間違いを犯したことを論考していて面白い。



↓ブログランキングに参加しています。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ


関連記事

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://pasage.blog43.fc2.com/tb.php/1724-91278127

 | HOME | 









ブログランキングに参加中です

リンク

お気に入りに追加
このブログをリンクに追加する

最近の記事

にほんブログ村ランキング

ブログ内検索

Loading

カテゴリー


全記事一覧(500件ごと)

カレンダー+月別アーカイブ

ケータイ版URL

QRコード

RSSフィード

プロフィール

pasage

Author:pasage
昼食時は「難民」と化して「新書」を片手に、都内各地を彷徨っています。

FC2Ad

Template by たけやん

QLOOKアクセス解析

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。