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『「農民画家」ミレーの真実』井手洋一郎(NHK出版新書 427)

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『「農民画家」ミレーの真実』井手洋一郎(NHK出版新書 427)


著者は、府中市美術館館長で美術評論家。1997年に山梨県がミレーの「種をまく人」と「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」を購入した翌年に山梨県立美術館に学芸員として就職し、開館以来10年間にわたって「ミレー番」としてミレー作品の世話をした。

本書は、ミレーの代表作が描かれた時代背景と、図像学的側面からミレーの綿密な技法を解説するとともに、清貧の「農民画家」として日米で偶像化されたミレーの実体に迫る評伝になっている。

【目次】

第1章 〈種をまく人〉がまいているのは何か?—ミレーの革新性
 一 ミレーによる「農民画」の改革
 二 〈種をまく人〉の衝撃
 三 二つの〈種をまく人〉の謎
第2章 ミレーの生涯と画業の変遷—ミレーの多様性
 一 グレヴィルの日々—ミレーの原風景
 二 シェルブール、パリ—苦難の日々と肖像画家としての研鑽
 三 二月革命でつかんだチャンス—歴史画から農民画へ
 四 バルビゾン前期—農民画代表作の誕生
 五 バルビゾン後期—風景画の新境地と名声
 六 晩年—最後の「四季」から印象主義の先駆へ
第3章 ミレーは本当に清貧か?—ミレー神話の形成過程
 一 ミレー・ブームを作ったアメリカ
 二 サンスィエの「ミレー伝」、神話と真実
 三 日本におけるミレー神話
第4章 さまよえる魂の画家—ミレーの現代性
 一 「現代画家」としてのミレーの素顔
 二 人間の疎外とミレーの世界性


ミレーは、1814年にフランスのノルマンディー地方に生まれ、1875年にパリ郊外のバルビゾン村で亡くなっている。ミレーが生きた19世紀初頭から後半のフランスは、七月王政の時代を経て産業革命の勃興による労働者主体の二月革命が起こるも、ナポレオン3世によって第二帝政となり、次に普仏戦争によって第三共和政となったように、王政と共和政が交互に入れ替わる激動の時代だった。

パリで「第一回印象派展」が開催されたのは、ミレーの亡くなる1年前の1874年4月のことだった。モネ、ドガ、ルノアールらが参加した私的な展示会で、サロン(官展)に落選した作品を集めた「落選展」だった。一方、彼らよりは一世代上のミレーは、サロン展に何度も当選し、晩年には第1位も受賞している。

ミレーは農家の長男として生まれている。しかし、19歳で故郷を離れて以来、農民だったことはなく、あくまで農民を描く「農民画」の画家だった。しかもミレーの描いた約400点の油絵のうち、農民中心の構図は100点に満たず、それ以上に肖像画や風景画を描き、聖書や神話が主題の歴史画、風俗画、静物画も描いたが、代表作とされるのは農民を描いた一連の作品だ。

ミレーが1850年のサロン展に「種をまく人」を出品したのは、革命的な事件だった。それまでも農民画はあったが、1人の農民をアップで描いた絵画はなかったからだ。大股で歩きながら種をまく農夫の力強さから「霰弾をまいている」と評した人もいたほどだった。さらに、画面を厚塗りにしたことも、薄塗りの新古典派の技法に反して革新的だった。

当時ミレーはバルビゾン村に住んでいたが、描かれた斜面は故郷のノルマンディーを思わせ、まいているのは蕎麦の種と推察されると著者はいう。ノルマンディーでは、荒野でも育つ蕎麦が主食となっていたからだ。豪奢を極めるパリっ子たちにミレーは、貧困にあえぎながらも力強く生きている農民の姿を見せつけたのだ。

実はミレーは5点の「種をまく人」を描いたという。1840年に描かれた作品はすでに失われ、1847〜1848年に描かれたのは、縦長のキャンバスに描かれた「種をまく人」。そして、1950年にボストン美術館版と山梨県立美術館版の2点を描き、最後に未完成作のカーネギー美術館版を描いている。

種をまく人
左が山梨版、右がボストン版

このうちボストン美術館版と山梨県立美術館版のどちらかがサロンに出展されたはずだが、どちらが出品されたのかはっきりしないらしい。

1984年から1985年にかけて、日本各地で開催された「ミレー展 ボストン美術館蔵」と題した展覧会では、ボストン版と山梨版を並べて展示され、1985年4月に山梨県立美術館でどちらがサロン展に出品されたかという問題を巡ってシンポジウムが開催された。ボストン側は学芸部長補佐のアレクサンドラ・マーフィー、山梨側は「ミレー番」学芸員の著者が、一騎打ちで論争することになった。

著者は、X線写真で現れた下絵に描かれた人体各部が現在の山梨版よりもボストン版に近いことなどから、山梨版が後から描かれたことを証明した。さらに、ミレーの友人であり、マネージャー兼作品ディーラーでミレーの伝記作家アルフレッド・サンスィエが、1850年に描かれた「種をまく人」2点のうち、後に描いた方をサロンに出品した、と伝記に書いていることから、著者は山梨版がサロン展出品作だと主張した。これに対して、ボストン側は様式比較などによってボストン版の方がサロン出品作にふさわしい、と主張した。

X線分析という客観的証拠によって山梨版に軍配が上がるかと思われた。しかし、ミレー研究の権威であるロバート・ハーバート教授は、山梨版を所有したサンスィエが売却の際にサロン出品作だと主張していないこと、ボストン版はボストンにもたらされて以来サロン展出品作と呼ばれてきたことから、山梨版が後に描かれたとしてもサロン展出品作ではなかった、とボストン説を擁護したという。

マーフィーは現在でもことあるごとにボストン版がサロン展出品作であると主張しているが、結局はどちらがサロン展出品作かはわからないのだ。

「落ち穂拾い」の解説も面白い。ミレーは「落ち穂拾い」も何度も描いているが、1857年にサロン展に出品した「落ち穂拾い」は特別だ。

落ち穂拾い

落ち穂拾いという行為は、フランスでは古くから農村の互助的風習として行われていた。その際、零細農民には、地主の麦畑の収穫を手伝う手間賃が支払われ、さらに生産物の1割を占める落ち穂を拾う権利が認められていた。

しかし、1854年、第二帝政期に貴族階級を中心とする地主たちがこれに物言いをつけたのだ。2年間の論議の末、落ち穂拾いは、日没前に女性と子供が監視人付きで行うなどの制限が付くようになった。

サロン展に出品された「落ち穂拾い」は、3人の女性たちが、拾うべき落ち穂がほどんどないような畑で、日中に堂々と落ち穂を拾っている。つまり、落ち穂拾いという権利を奪われた農民の姿を描いているのだ。評価は、「ボロを着た案山子」「貧弱」「醜悪」「粗雑」「平板」「傲慢」という悪評と、「崇高さと晴朗さ」「農夫の美徳である勤勉な忍耐」という過大な賛辞に別れた。

著者は、構図分析によってこの作品が巧みな視線誘導で「大地に生きる農民」の姿を描いていることを示している。この絵は二等辺三角形を基本構図としていて、対角線上の平行線内にモチーフが納まるように計算されているという。3人が持つ落ち穂の束は右下から左上へと対角線上に並び、左上の大きな積み藁にたどり着く。中央と右の農婦の顔を結んだ延長線上には、馬上で命令している監視人が描かれ、彼女たちが監視下にあることを示しているのだ。

夕暮れの畑で祈る若い夫婦を描いた「晩鐘」も不思議な作品だ。

晩鐘

アメリカ人美術コレクターのトマス・ゴールド・アップルトンの依頼で描かれたこの絵は、鐘の音と祈りをテーマにしている。しかし、遠くに教会の尖塔は描かれているものの、キリスト像やマリア像、十字架といったアイコンは描かれず、カトリックの宗教画の形式を放棄した構図になっている。著者は、プロテスタントであるアップルトンの指示で宗教や宗派を問わない「ユニバーサルな祈り」の作品として描かれたとしている。堅苦しい宗教臭がないから、宗教とは離れた「祈り」の絵画として世界中で受け入れられることになったのだ。

夫婦はいったい何を祈っているのか。著者の仮説は「馬鈴薯の収穫」だというものだ。小麦が採れない地域のフランス農民は蕎麦や燕麦を主食にしていたが、それも食べられない場合にはじゃがいもで代用したという貧しい状況を、同じくじゃがいもを主食にしていた開拓時代のアメリカの生活になぞらえて描き、ボストンの富裕層向けに節約の美徳を表す効果を狙った郷愁的教訓画である、としている。

ミレーは農家の長男だったが、絵の才能を活かすために故郷を捨て、家族を捨てた漂泊者としてバルビゾン村で暮らした。しかし、そこで描いた風景画は平坦なバルビゾンの農地ではなく、傾斜のきつい故郷ノルマンディーの農地であり、ノルマンディーの農民たちだった。故郷や家族は捨てたが、心はノルマンディーから離れることはなかったのだ。

そうしたミレーの作品は、フランス国内よりもアメリカで人気を博した。「信仰・清貧・農民」というイメージは、ミレーのマネージャー兼作品ディーラーのサンスィエが書いたミレーの伝記で捏造されたという。それはアメリカのピューリタン精神に受け入れやすかったため、アメリカ人は捏造されたミレー像をさらに増幅して愛した。

そして、明治末期から大正にかけて日本でミレーが「偉人」として受け入れられ、数々の偉人伝に「清貧の農民画家」として書かれたのも、そのアメリカの影響下にあったためだ。

ミレーは古典派から印象派の端境期にあって、さまざまな技法にチャレンジしながら革新的な画法によって描いたが、フランス国内では人気が出なかった。著者は、フランス人が外国人には見せたくないフランスの野暮ったさや前近代的な姿を描いたからではないかと推察している。

最近では、アメリカと日本に続いて、韓国・台湾・中国などのアジア諸国でもミレーの人気が高まっているという。

著者は、そこにかつて農業国だった国々で、ミレーの絵が公害のない穏やかな田園時代のユートピアとして捉えられていると見る。2010年の上海国際博覧会で展示された「晩鐘」、2012年に上海中華芸術宮(国立美術館)の落成を記念して展示された「落ち穂拾い」の圧倒的人気に、日本で公害が最もひどかった1960〜1970年代に同じくミレー・ブームが起こったことと重なるという。世界でミレーが「脱工業化のシンボル」と捉えられているのだ。



■関連書籍
『名画に隠された「二重の謎」―印象派が「事件」だった時代』三浦篤
『印象派の誕生―マネとモネ』吉川節子



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