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『日本人の身体』安田登(ちくま新書 1087)

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『日本人の身体』安田登(ちくま新書 1087)


著者は下掛宝生流能楽師。大学では中国古代哲学を学び、20代前半は漢和辞典の「執筆」に携わったという。

能はもちろん『古事記』や『古今集』といった日本の古典文学、『荘子』や『論語』、ギリシャ悲劇、聖書などさまざまな文献、漢字の起源やギリシャ語、ヘブライ語、シュメール語まで駆使して、日本人の身体観を明らかにしようとしている。

本書は、「日本人の身体観を振り返りながら、現代の閉塞状況を打開するような価値観を再発見する端緒になればいい」と思って書いたという。

【目次】

第1章 「身(み)」と「からだ」
 欠落した身体/はだか/『古事記』の中のはだか/『古事記』の中の性的表現 ほか
第2章 曖昧な身体
 主客の境が溶けるとき/時間の境も曖昧に/おもひ/共話 ほか
第3章 溢れ出る身体
 溢れ出す身体/情緒/自然をうたう/あわいで考える/草木国土悉成仏 ほか
第4章 ため息と内臓
 環境と直接つながりたいという欲求/『古事記』に見る欲求の変化/惻隠の情 ほか


第1章 では、古い日本語には「からだ」と「こころ(あるいは魂)」のように心身を二分した語はなく、その統一体として「み(身)」だけがあったという。

ところが、元々は死体を意味する言葉である「から(殻)だ」を使うようになって、心や魂と一体だった「み(身)」が対象化されることになった。日本人は身体の部位を細分化し、身体の不調は医師に委ねるようになった。しかし、著者は日本人の身体観は各部位を明確に区分しないおおまかなものだという。

例えば、「膝」という言葉から多くの人は「膝頭」を思い浮かべるが、「子どもを膝にのせる」というときの膝は、膝頭ではなく太ももの前側を指す。「肩が凝る」というときには「肩峰」よりもむしろ首の付け根近くを意味している。

「こころ」と「からだ」について、幼少期の不思議な体験を書いている。保育園に通っていた頃に、それまでの記憶がごっそりなくなる体験をしたというのだ。しかも、数日前から今までの記憶がなくなるという予感があり、それを止めることはできなだろうとわかっていて、このことを記憶しようとして、何度も思い返しているという。

記憶が失われていくときに、それまでの記憶に「ああ」と手を差し伸べた記憶もあるらしい。そして著者はこの日が悲しみを覚えた日であり、「こころ」が生まれた日であるとしている。

著者は、そうした変調にとても敏感な人なのだろう。

第2章では、日本人の思考方法や言葉が境界を線によって分割するのではなく、曖昧なままに分けていることを明らかにしている。

著者は、日本人の身体観がかつては曖昧さを含みおおらかであったという。さらに、そのおおらかさは、身体だけにとどまらず、他人や他人の身体との関係、あるいは生者と死者の境界も曖昧だった。

その例として、まず夢幻能の『定家』を挙げる。旅の僧(ワキ)が「あるところ」に行きって雨宿りしようとすると、そこの土地の者である女(シテ)が現れ、雨宿りしようとしている「時雨の亭」は藤原定家が建てたところだという。その後、2人の会話は定家の歌を交互に詠むことで進行するが、途中から主客が曖昧になり、シテが言うべきことをワキが言い、シテとワキの境界が曖昧になっていく。

シテの女は実は幽霊であり、生者であるワキとは別の時間にいる。現世の過去から未来へと流れる「順行する時間」に対して、シテが住まうのは永遠の時空であり、永遠から現在へと向かって流れる「遡行する時間」である。ふたりの会話が盛り上がった瞬間、2人の間に流れる時間の境界も曖昧になる。そのとき時空が歪み、シテの生きていた「いま」が出現する。

日本人の認識の曖昧さは、空間についてもいえるという。例えば、区切られた閉鎖空間の内部は「うち」であり、その外部空間は「そと」であるが、その間にある曖昧な空間は「なか」と呼ばれる。日本家屋の縁側は「なか」である。「なか」に入れるのが「なかま(仲間)」で、「うち」まで入れるのが「みうち(身内)」ということになる。

第3章では、人と人との境界が曖昧になるだけでなく、その曖昧さがさらに拡張して、身体が環境に溢れ出てしまい、さらにはそれによって身体と身体との同期が起きるという能の世界が語られる。

(シテとワキの)会話がピークに達したときには、ふたりの心情でも、ふたりの行動でも、またふたり自身のことでもなく、情景・風景が謡われる。会話するふたりの間の境界がなくなり「思い」に達し、それがさらに進むと、ふたりどころか環境との境界も曖昧になり、ふたりは環境と一体化してしまうのです。(p.120)

人間が自然と一体化するという日本古来の考え方として「草木国土悉皆成仏」を挙げている。『源氏物語』の「夕顔」をもとにした能『半蔀(はじとみ)』に、何度も登場する句だという。これは『涅槃経』にある「一切衆生悉有仏性」がもとになっているが、「一切衆生」は人間が対象だ。最澄や空海にはこの思想があったので、日本仏教の前提となった感があるという。

第4章では、「思い」が溢れ出る場所である「はら」と「きも」、そして「ため息」、「もののあはれ」や首狩り族の歌と能の音楽についての考察。

「腹」の語源は「原」であり、「遙か」とも語源が同じで、「はら」は、広大で聖なる原野を意味した。「原」は、呪術的な信仰の聖地であった。脳で決定した「意思」よりも、「肝を据え」て考えた「思い」は強く、「腹が立つ」のは怒りが腹に据えかねたときだ。

日本人の身体観の基本は、自他の区別なく、また環境と自己との差別もない曖昧な身体でした。ふだんはそれは曖昧な境界線の中にとどまっていますが、なにかあるとすぐに溢れ出し、他人と一体化し、自然と一体化しようとします。「あはれ」とは、他人や環境と一体化せんとあふれ出た、蠢く自己の霊性そのものなのです。(p.205)

古来、日本人は身体に対しておおらかだった。自然の中に身を置き、ゆったりと生きていた。夏目漱石は、「体を鍛える」といった考えは、明治以降に西洋から伝来した「体を鍛える」と言った考え方を「伝染病」と呼んだ。その古来の身体観が残っているのが能の世界であり、能楽師は高齢になっても現役を続けられるという。


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昼食時は「難民」と化して「新書」を片手に、都内各地を彷徨っています。

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