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『会津藩VS長州藩-なぜ“怨念”は消えないのか』星亮一(ベスト新書 66)

会津藩vs長州藩


『会津藩VS長州藩-なぜ“怨念”は消えないのか』星亮一(ベスト新書 66)

山口県長門市でギネス記録の世界一長い焼き鳥を作られたことがあった。それに対抗して福島県川俣町がギネス記録を作り、ここに会津若松市が「長州には負けられない」と参戦した。長門市がもっと長い焼き鳥を作ると、それに香川県日高川町が参戦、と日本各地でギネス記録合戦が展開された。

会津若松の「長州には負けられない」というのは、もちろん半分くらいは冗談だろうが、どうやら明治維新から140年を経てなお会津は長州には怨念を抱いている、ということになっているらしい。

本書は、会津がなぜ長州と対立するのかを明らかにしようとするものである。著者は、新聞記者として会津で3年を過ごし、長州に対する会津の深い怨念を知ると共に、両者が和解する道を探ろうとしている。

文久2年(1862)、会津藩主の松平容保は、京都守護職に任じられる。長州や薩摩の尊王攘夷派によるテロ行為によって無政府状態と化した京都の治安を守り、攘夷派の公家たちから孝明天皇を守るためである。

この頃、尊王攘夷派の長州藩と公家は、攘夷の実行を幕府将軍と諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとしていた。それを察知した薩摩藩は、文久3年(1863)8月13日に会津藩と手を結んで、これを防ごうとした。

そして8月18日、会津藩と薩摩藩、孝明天皇や公武合体派の公家は連帯して尊王攘夷派の計画を潰し、長州藩を朝廷における尊攘派一掃を画策した。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われ、 朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。これが「八月十八日の政変」であり、後の池田屋事件や禁門の変が起こるきっかけとなった。

この時点では、もちろん会津が長州を恨むような状態どころか、長州が会津を恨むようになっていった。

元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋で、京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が、潜伏していた長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派を襲撃する池田屋事件が勃発する。尊王攘夷派は、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・杉山松助といった実力者を失い、長州の会津に対する恨みが増すことになる。

さらに、7月19日(1864年8月20日)、長州藩が形勢挽回のため京都に出兵して御所の蛤御門を砲撃すると、会津藩と薩摩藩は、長州勢を壊滅させ、久坂玄瑞・寺島忠三郎らが戦死した(禁門の変)。こうして、会津に対する長州の恨みは最高潮に達する。

朝敵となった長州は、坂本龍馬の仲介で薩摩藩と手を結び薩長同盟として討幕運動を始める。徳川慶喜に大政奉還を迫り、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破ると、戊辰戦争へと突入する。

会津戦争では、長州の主力は河井継之助が率いる長岡藩との戦闘にてこずり、白河方面から会津に攻め込んだ薩摩や土佐に後れを取った。会津藩が降伏した際には、会津の西にある会津坂下までしか進軍できていなかった。だから、1カ月間の籠城中に会津の市街地で略奪や殺戮、強姦などの残虐行為を行ったのは薩摩軍や土佐軍だったという。

本書をどこまで読んでも、会津が長州に怨念を抱く理由はわからない。

強いて挙げれば、会津には会津戦争の残虐行為が長州軍によってなされたという誤解がある、ということらしい。新政府軍の総司令官が長州出身の大村益次郎だったことも一因かもしれない。また、戦後処理として会津藩(23万石)が下北半島にある不毛の地だった斗南藩(3万石)に移封されたことを挙げているが、それが怨念のもとになったとは書いていない。

本書では「なぜ“怨念”が消えない」のかどころか、「なぜ“怨念”が生まれたのか」が明らかにされないために欲求不満が残るだけである。

ネット上には、白虎隊を観光資源として利用するために怨念が醸成されたかのような記述も見られるようだが、田舎のごく一部の観光業者にどれほどの力があるというのか、何も知らない者が書いたのだろう。

では、なぜ怨念は生まれ、消えないのか。

例えば、幕臣の大藩としてのプライドが傷つけられたことは怨念の原因と考えられないか。

戊辰戦争の勝者は、廃藩置県後も従来の藩と同じ地域を県にされたが、敗者は藩を解体され弱小藩に吸収合併されることになったケースが多い。廃藩置県で23万石だった会津藩も若松県となり、太平洋岸にあった4万石の磐城平藩は磐前県となり、2つが合併して福島県となった。県庁所在地の福島市には福島藩があったがこれも3万石の弱小藩だった。

最後に、会津若松市と萩市の相互理解と友好のために著者が活動している記述がある。しかし、「なぜ“怨念”が消えないのか」をちゃんと分析するのが先ではないか。



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