『日本人はなぜ「さよなら」と別れるのか』竹内整一(ちくま新書 764)
2009-03-08

『日本人はなぜ「さよなら」と別れるのか』竹内整一(ちくま新書 764)
本書は、日本人の死生観、そして他者(自分以外のすべてのものやこと)との関係性に関する考察である。
別れの言葉として、「さようなら」という接続詞が使われる世界でも類を見ない言語体系は、日本人のいかなる人生観および死生観から生み出されたものかを問うている。
世界の言語では、別れのあいさつは3つあるという。
1.Good-by(神と共に)
2.See you again(また、お会いしましょう)
3.Farewell(お元気で)
日本語で最も一般的な別れのあいさつは、この3つではなく、「さよなら」という接続語が一般的なようだ。最近は「さよなら」とは言わなくなったが、「それじゃ」や「じゃあね」というのも接続詞だ。
日本人の死生観・無常感として、我々は自然の一部であるとする考え方を紹介している。大きな枠組みとしての「自然のいのちのリズム」のようなものがこの宇宙にははたらいていて、われわれの力や意志をも含んで、すべて興るも滅ぶも、生きるのも死ぬのも、この「大きなリズムの一節」である、と受け止める。日本人には、自然に対してそうした諦観をもっている。「おのずから」や「自然に」といった言い回しにも、そうした無常感が現れている(p.93)。
志賀直哉は『ナイルの水の一滴』で、「私」は悠々と流れるナイルの水の一滴だと書いた。その一滴は私以外の何物でもないが、かつ大河の一滴に過ぎない。全体の中の一部でありながら、外のものには代えられない存在という考え方は、古くから日本人の心に染み付いている。
一番知りたかったのは、どうして日本人が「さよなら」という接続詞を別れの言葉として使うようになったのかという点だが、著者は国文学者でも言語学者ではないから、その疑問には答えられない。
つまり、本書を読んでもタイトルはなぞのまま残る。問題の核心まで近づきながら、結論には至らずいつまでも周辺をウロウロと逍遥し続ける胡乱な記述が続く。
本書は、東京大学文学部での講義が元になっているという。著者の思考散歩に同行させられた学生たちが可哀想だ。
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