TOP > スポンサー広告 > 『間宮林蔵・探検家一代―海峡発見と北方民族』高橋大輔(中公新書ラクレ 297)TOP > 新書 > 『間宮林蔵・探検家一代―海峡発見と北方民族』高橋大輔(中公新書ラクレ 297)

昼食難民の新書生活

(新宿・秋葉原・芝浦など各地でのランチと読書)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『間宮林蔵・探検家一代―海峡発見と北方民族』高橋大輔(中公新書ラクレ 297)

間宮林蔵


『間宮林蔵・探検家一代―海峡発見と北方民族高橋大輔(中公新書ラクレ 297)

サハリン島とユーラシア大陸を隔てる間宮海峡を知らない日本人はいないだろう。

1832年、シーボルトがオランダで発行した『日本』に添付した地図には、ユーラシア大陸とサハリン島の間の海峡を「Str. Mamiya(seto)1808」と紹介され、海峡の発見者である間宮林蔵の名が記されている。それまで、ロシアのみならずイギリスやフランスもサハリンが島であるか半島であるかを確かめられず、1809年に間宮林蔵が発見した功績が認められているのだ。

ところが、現在は日本で発行される地図以外には、この海峡はタタール海峡あるいはネベリスコイ海峡と書かれ、間宮海峡の名は歴史の中に埋もれてしまったという。地名というのは統治国の都合で容易に変更されてしまうものなのだ。

著者は、デフォーの小説『ロビンソン・クルーソー』のモデルとなったアレクサンダー・セルカークが取り残されたチリ沖の孤島を特定し、さらにはその居住跡を発見した探検家。本書では、間宮林蔵の足跡をたどって、10年にわたる調査からその人物像に迫っている。

まず、1997年末にサハリンを縦断し、その足跡を訪ねている。その後、2006年に林蔵が訪れたアムール川中流域の交易所だったデレンの跡を探し足跡を訪ねるため、上流のハバロフスクから船で650キロも下ることになる。

2つの旅は、林蔵の残した探検記『東韃地方紀行』や『北夷分界余話』の旅程と共に、200年前と現代とが交錯しながら記述され臨場感にあふれている。間宮が残したこの2冊は、九州大学デジタル・アーカイブで鮮明な画像の原本全文を閲覧できる。
『北夷分界餘話』
『東韃地方紀行』

アムール川流域にはガソリンスタンドがないため、船を止めてはガソリン探しに苦労する。ガソリンを補充してもオンボロ船のために修理したり、浅瀬に座礁するなど、著者は苦労の多い旅を続ける。

本格的な学術調査ではなかったので、デレンを特定することはできていないが、林蔵の苦難が著者の苦難と重なり、このルポルタージュの良い味付けになっている。

さらに、著者はオランダのライデンに飛び、林蔵が描きシーボルトが幕府から盗み出したサハリンの地図である『黒流江中之州并天度』の現物を見る。すると、そこに林蔵の大先輩である最上徳内の極書を発見する。地図の表紙にも徳内の号である「白虹齋」とあった。

シーボルトが国外に持ち出そうとした伊能忠敬の日本地図は、書物奉行の高橋景保から受け取ったことになっているが、林蔵の地図は徳内から渡されたものだったのだ。シーボルト事件で景保は獄死したのちに死罪を申し渡されているが、徳内はお咎めなしだったという。

サハリンの探検から戻った林蔵は、伊能が未調査だった北海道の測量に従事し、10年におよぶ調査中にアイヌの娘と結婚し一女をもうけている。著者は、独身で子孫を残さなかったとされてきた林蔵の血を受けた子孫にも会っている。

本書は、間宮林蔵の生地から探検の地、そしてその末裔までを訪ね歩いた見事なルポルタージュである。

関連記事

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://pasage.blog43.fc2.com/tb.php/297-5ec89401

 | HOME | 









ブログランキングに参加中です

リンク

お気に入りに追加
このブログをリンクに追加する

最近の記事

にほんブログ村ランキング

ブログ内検索

Loading

カテゴリー


全記事一覧(500件ごと)

カレンダー+月別アーカイブ

ケータイ版URL

QRコード

RSSフィード

プロフィール

pasage

Author:pasage
昼食時は「難民」と化して「新書」を片手に、都内各地を彷徨っています。

FC2Ad

Template by たけやん

QLOOKアクセス解析

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。