『会津藩VS薩摩藩』星亮一(ベスト新書 185)
2009-03-01

『会津藩VS薩摩藩-なぜ袂を分かったのか』星亮一(ベスト新書 185)
会津が薩摩を恨んでいるという話は聞かない。なぜ会津は薩摩に怨念を抱かないのかという疑問は、なぜ会津はいつまでも長州には怨念を抱き続けるのかという疑問と同じくらい謎だ。
薩摩は会津を裏切ったのだから、恨まれても仕方がないはずだ。
薩摩藩は、禁門の変(蛤御門の変)までは公武合体派として、会津と手を組んで長州を打ち破った同盟関係にあった。それが、たった3年後の戊辰戦争では、新政府軍として伊知地正治の下で白河から会津に攻め入り、略奪・暴虐のかぎりを尽くした。ちなみに、長州藩は長岡藩攻略に手こずり、会津落城までに城下までは辿りつけなかった。
著者は、尊王攘夷に凝り固まった薩摩藩と長州藩が薩英戦争や馬関戦争という愚かな戦闘を通じて欧米列強との武力の差を思い知り、一転して手を結び開国派へと変わったいった仕掛け人として西郷隆盛がいたという。長州藩との橋渡しをしたのが坂本龍馬だ。
会津藩と薩摩藩が袂を分かったのは、時代のが流れの方向を大きく変えようとした時に、薩摩藩には西郷隆盛という舵取りがいたが、会津藩の首脳には時代の変化を察知して舵を大きく変えようとする人材がいなかったからだ。会津藩は、たすら愚直に徳川幕府の延命を助けようとしただけだったのだ。
しかし、なぜ裏切った薩摩藩を会津は恨んでいないのか、という疑問は残る。
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