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『梅原猛の『歎異抄』入門』梅原猛(PHP新書 300)

梅原猛の「歎異抄」入門


『梅原猛の『歎異抄』入門』梅原猛(PHP新書 300)

全く内容のない五木寛之の『歎異抄』本を読んだので、本書を購入。梅原猛は、『歎異抄』を日本で最も優れた宗教書だという。

第一章では、『歎異抄』を「心の恋人」として生きた青春時代からの梅原の想いが語られる。現代のような「末法」の時代にこそ、『歎異抄』に描かれたような親鸞のような揺るぎない信仰の心が必要であり、「日本人の精神の糧、いや世界の人の精神の糧になるのではないか」と絶賛している。そして、親鸞の深く淀んだ言葉を、弟子の唯円が明晰かつ率直に記述しているという。

『歎異抄』が秘本として本願寺の文庫に秘められてきたのは、そこに「強烈なアナーキズムとも言うべき宗教思想」が含まれているからだと梅原は書いている。親の追善供養のために念仏を唱えることを否定したり、信者から布施を取ることを潔しとしない親鸞の思想は、「宗門の批判になり、組織の否定につながる」からである。

第二章と第三章では、親鸞が専修念仏に至った経緯と唯円が『歎異抄』を書くに至った経緯が明かされる。

「一宗を開くほどの宗教家であれば、どこかに異常な“狂気”とでも言うべきものがあったと思われる」と梅原は考えている。だから、仁忠の『叡山大師伝』や真済の『空海僧都伝』のような偶像化された祖師伝は、最澄や空海の狂気が中和されていると見做す。また『歎異抄』は、懐奘の『正法眼蔵随聞記』やエッケルマンの『ゲーテとの対話』のような客観的な叙述ではないという。唯円の晩年に書かれたと伝えられる『歎異抄』は、死ぬ前にこれだけは書き残したいと切羽詰まったものがあるというのだ。

『歎異抄』の「序言」には、親鸞の死後にその信仰と「異」なる教えがはびこっていることを「歎」き、「不審」を晴らしたいと書かれている。『歎異抄』には、なぜそれほどまでの唯円の想いが込められているのか。江戸時代の僧了雅が親鸞の遺跡を調べて書いた『大谷遺蹟録』などの歴史資料から、梅原はこれまで東国出身とされてきた唯円を、親鸞の娘である覚信尼の再婚相手禅念の連れ子であるとする。唯円は、親鸞の直接の孫ではないが、孫のように幼いころから身近にいたと考えているのだ。

『歎異抄』の附録には、法然と7人の弟子の法難が書かれている。梅原は、同じ文章が『親鸞聖人血脈文集』や親鸞の著書『教行信証』にもあることから、親鸞自身が書いたものであるとしている。附録には、法然と親鸞が流罪にあい、4人の弟子が死罪となったと書かれている。法然が藤井元彦、親鸞は藤井善信と改名されたが、親鸞は「禿」という字を姓とすることを願い出て許可され、後に「愚禿」と名乗ったという。罪人とされて、俗人名を与えられたことに対する激しい怒りであり抵抗である。親鸞が怒りをもって書いたこの文章を、唯円はなぜ『歎異抄』の附録としてわざわざ最後に付けたのか。唯円は、親鸞が自ら書いた受難の記録を『歎異抄』に加えることで、権力者はもとより延暦寺や興福寺といった仏教勢力に対する親鸞の怒りを記録したかったのだろう。

第四章からは『歎異抄』の各条についての深い考察が展開する。

第四章の章題は「道徳の延長上に宗教はない」という強烈なものだ。宗教と道徳には重なる部分もあるように思えるが、道徳をいくら積み重ねても宗教にはならない。そもそも、宗教は道徳とは何の関係もないとする立場だ。その前提になっているのは、善行をいくら積み重ねても浄土へ往生することはできない、とする自力の否定だ。

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という逆説を、梅原は驚くほど明快にひも解いて見せる。

『大無量寿経』には、阿弥陀仏が法蔵菩薩という人間だった時に48の願をかけて難行苦行して阿弥陀仏となったと書かれている。その18番目の願が「本願」であったという。心から極楽浄土に往生しようと思って十念すれば、五逆(父・母・阿羅漢を殺すこと、仏を傷つけること、教団を乱すこと)と仏教を誹謗する人を除いて、すべての人が極楽浄土に往生しなければ、自分は仏にならない、という願だった。善人は阿弥陀仏が救わなくとも極楽浄土に往生できる。だから阿弥陀仏が救うべきなのは悪人ということになる。「悪人でさえ往生できるならば、善人は往生できる」とするのが普通だが、阿弥陀仏の願は悪人成仏のためであり、他の方法によっては極楽往生できない悪人こそが往生の対象である。

法然は「南無阿弥陀仏」と10回唱えればだれでも往生できると説いたが、親鸞は1回でも十念に通じるとした。そもそも末法に生きる「凡夫」は「善悪」の判断すらできない根源的な「悪人」である。また、自分は「善人」だと思い込み、その事に気づく事すらできないというのも実は「悪人」である。梅原は指摘していないが、ここにはキリスト教の「原罪」と通じるものがあるのではないか。阿弥陀仏は極楽往生を約束しているが、それには単なる善行の積み重ねという「自力」で達することができるわけではない、ということになる。

本書は、こうした解説に加え“超訳"と呼びたくなるほど懇切丁寧な現代語訳、親鸞関連年表までついていて極上の「入門書」となっている。

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