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昼食難民の新書生活

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『北大路魯山人という生き方』長浜功(新書y)

北大路魯山人という生き方

『北大路魯山人という生き方』長浜功(新書y)

福田房次郎のちの北大路房次郎、雅号が北大路魯山人の評伝である。著者は、伝記小説家の白崎秀雄が書いた『北大路魯山人』が捏造と創作によって魯山人の姿を大きく歪めているにもかかわらず、「評伝の決定版」として魯山人を語る際に依拠されていることに怒りを感じている。すでに1988年に『真説北大路魯山人』(洋泉社)を著しているが、白崎の魯山人像を覆すに至らなかったので本書を書いたという。

上賀茂神社の宮司の末席であった北大路家の次男として生まれた魯山人は、生後間もなく父の死によって養子に出される。それも1度や2度ではなく何度も養家を巡った。6歳のときに木版師の福田家でようやく安住の場を得るが、尋常小学校を4年で卒業した後は、薬問屋に丁稚奉公に出る。竹内栖鳳の日本画を見て感激し画家を志すも叶わず、書道の道具すら買えない中で、お使いの途中で見た珍しい看板の文字を地面や竈の灰に枝や火箸で字を書いて覚えた。これがのちに書家としての「修行」になったようだ。

魯山人によれば6、7回だというが、何度も養家が替わったのはなぜだったのだろうか。物心つく前から感受性が高かったり、のちの狭隘な性格が現われていたのだろうか。ようやく落ち着いた福田家は貧しい職人ながら両親ともに温厚な性格だったという。

魯山人は書家のほか、日本画家、篆刻家、陶芸家、料理家として名を馳せるが、書にしても日本画にしても業界からは「素人」という扱いだった。独学独歩で誰の流派にも属さず、自らも群れを作らなかったからだ。篆刻は養家の稼業を手伝った時にノミの使い方を学んだのかもしれないが、わずか6歳から10歳までの4年間である。

では、陶芸や料理はいつ学んだのか。本書によれば、30歳を前にして妻子と愛人とのゴタゴタからの逃避行で1年ほど滞在した朝鮮や中国、さらに滋賀県長浜市の河路豊吉や金沢の細野燕台の食客として「修行時代」に学んだようである。目と舌の感覚が著しく鋭く、考えたことを確実に再現できる手先の器用さ、つまりは腕と指先の筋肉を自在にコントロールできる天賦の才があったのだろう。

魯山人に関してはまだまともな研究がなされていないらしい。だから白崎の小説が「評伝」としていまだに依拠されるのだが、本書にも「小説」の部分は少なくない。魯山人や関係者の発言として一人称で語る部分は間違いなく「創作」である。白崎を激しく批判する著者が同じ愚に陥っているのである。

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