『宮大工と歩く奈良の古寺』小川三夫 聞き書き・塩野米松(文春新書 762)
2010-09-05

『宮大工と歩く奈良の古寺』小川三夫 聞き書き・塩野米松(文春新書 762)
小川三夫は伝説の宮大工・西岡常一の唯一の内弟子として、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、薬師寺西塔(三重塔)の再建に副棟梁として活躍したという。現在は、薬師寺東塔の修復に携わっている。
本書は、その小川棟梁が法隆寺、法輪寺、法起寺、薬師寺、唐招提寺など、奈良の主要な寺院を実際に訪ねて、伽藍配置や建築のディテールについて解説する貴重な本である。一般書でここまで詳しく寺院建築の詳細について書かれた本はなかったのではないか。
例えば、法隆寺五重塔の逓減率、雲肘木や斗拱といった組み物の構造など、実際に寺院建築を手がけている宮大工ならではの解説が興味深い。
圧巻は唐招提寺の解説である。三手先という組み物を詳しく解説しているのだが、三手先が生み出されたのは、法隆寺の雲肘木を切り出したような巨木がなくなったためだという。飛鳥時代に奈良の巨木は切り尽くされ、唐招提寺を建設する頃には法隆寺の雲肘木のような大きな部材は作れなかったのである。その傾向は東大寺の建築で一層明らかとなる。南大門では複雑な組み物ではなく挿肘木で軒を支える構造になっており、大仏殿の柱は太さが揃わなかったために、化粧材を巻いている。
東大寺南大門の柱は貫(ぬき)という部材が貫通していて、天平建築の特徴となっている。飛鳥や白鳳時代の寺院建築には貫は見られないからだ。貫は柱同士を強固につなぐので構造的に有効な仕組みだが、なぜ天平時代になるまで貫が採用されなかったのか不思議だった。小川の解説によれば、貫を作ることが可能になったのは工具と技術の向上によるらしい。天平時代以前は、太い柱にまっすぐに貫を通す穴を開けることが難しかったからだという。
また、西岡常一の人となりが垣間見れるエピソードも紹介している。薬師寺の高田好胤管主による復興事業は、当初は東塔の建設に限られていた。それを西岡常一棟梁が、東塔だけなのは片手がないようだと説得して西搭の建設が始まった。西搭が完成に近づくと、次は中門だとスズメがちゅんちゅん鳴く、中門が完成すると、次は回廊だとカラスがかあかあ鳴く、と説得したという。西岡棟梁は、宮大工としての技だけでなく、建設プロデューサーとして卓抜たる才能があった証である。
世界最古の木造建築として法隆寺が採り上げられる際には、木部ばかりが注目されるが、小川は瓦に注目すべきだという。1200年の風雪に耐えたのは、瓦や瓦葺き職人の技があったからこそ、木部が腐らずに残ったのである。元興寺禅院にも、1400年前に作られた行基瓦がいまだに屋根に並んでいて、木部を雨風から守っているからだ。
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