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昼食難民の新書生活

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『なぜ、横浜中華街に人が集まるのか』林兼正(祥伝社新書 211)

なぜ横浜中華街に人が集まるのか


『なぜ、横浜中華街に人が集まるのか』
林兼正(祥伝社新書 211)


著者は横浜中華街の名店である萬珍樓の社長であり、23団体で構成されている横浜中華街「街づくり」団体連合協議会の会長。

「放っておけば、町は必ず衰退していく」というのが、30年以上に渡って町づくりに携わってきた著者の信念である。だから、常に危機感をもって町の特色を見出し、その魅力が失われないように経営しなければならないのだ。

500メートル四方の広さしかない横浜中華街には、年間2300万人が訪れるという。単に中華料理店が並んでいるだけでは、これだけの集客は不可能だろう。横浜中華街は、「そこに行けば中国文化に触れることができる」というテーマパークとして自覚することで、さまざまな工夫を凝らしているのだ。

例えば、関帝廟や媽祖廟の建設。そして、たびたび開催されている中国式祭りの数々。媽祖廟の建設に際しては、建設用地がディベロッパーの手に渡ってしまいマンション建設が計画されたため、10億円で買い戻し、8億円で廟を建設した。そのため、400軒が毎月1万円を30年間に渡って支払い続けることになったという。

そこまでの団結力はどこから生まれたのか。400軒の店舗・法人しかないのに、23もの団体があるのだから「一枚岩」として団結しているわけではない。しかし、関東大震災や横浜大空襲で2度も壊滅状態になっても、復興させてきたのは華僑の人々が自分たちが生きる場所をここにしかないという強い想いがあったからだろう。

横浜中華街の歴史は1854年のペリー来航と共に始まった。1853年は浦賀だったが、翌年はペリー艦隊が江戸湾に入ったため、幕府は住民90名の寒村だった横浜村に「開港場」を設けて対応した。住民は移転させられ「元横浜村」に住むことになり、舶来の衣類などを扱う商人となったそれが現在の「元町」となった。

香港や上海で成功していたイギリス人やアメリカ人の商人が横浜にも店を開き、その支配人や通訳として日本人と筆談できる中国人を重用した。華僑たちが住んだ場所は「唐人街」と呼ばれ、華僑のための飲食店や商店が増え、やがて「南京町」として日本人たちも訪れるようになった。南京豆や南京錠のように舶来のものをナンキンと呼ぶことから、中国各地から人が集まっていたにもかかわらず日本人たちは「南京町」と呼んだのだった。横浜中華街となったのは、横浜市長だった平沼亮三がサンフランシスコのチャイナタウンを視察し、中国風の門を作ることを提案したことによる。門に掲げる名前をチャイナタウンの和訳である「中華街」としたのだ。

本書で何度も繰り返えされる「放っておけば、町は必ず衰退していく」というアフォリズムは、「町おこし」の担当者だけでなく企業経営者に心に沁みるはずだ。「放っておけば、会社も必ず衰退していく」からだ。


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